鎌倉時代〜明治維新前後
2019.01.28

[鎌倉時代〜明治維新前後] 床が日本人の暮らしに与えたもの

鎌倉時代 床に畳を敷き詰める

畳が室内に敷き詰められるようになったのは中世からだと考えられます。 中世(鎌倉時代~室町時代)の住宅では、寝殿造にはなかった天井が張られるようになりました。それにより建具によって部屋を細かく区画することができるようになりました。そして、その区画された部屋に畳が敷き詰められるようになるのです。置き畳が畳敷きに発展していく過程は、日本の伝統的住宅における家具の「建具化」の過程であるともいえます。つまり、畳敷きとは、座るための家具が建築にビルトインされたものといえるわけです。

江戸時代 畳の庶民への普及

天下泰平と称された江戸時代には、庶民の文化も発展し、それに伴い建築の世界においても変化が起きました。町家の中に座敷飾りがつくられるなど、本来武家住宅の形式である書院造のしつらえが、一部の力のある商家などの間にも広まり、しだいにわれわれが考える和風住宅というものの祖型が確立されていったのです。江戸後期には、畳の職人制も確立され、一般庶民の住まいにまで、畳敷きは普及していきました。

明治維新前後 床に表われる和と洋

カトリック宮津教会 1896年、京都府宮津市に建設された聖ヨハネ天主堂。木造のカトリック教会堂としては全国でも初期の建築。

明治維新以降、文明開化の幕開けとともに入ってきた西洋建築は、瞬く間に日本中へと広がりました。しかし、西洋建築をモデルとしてつくっても、日本の伝統的な生活様式に関わる部分には「和」が残されました。そして、その残される「和」として、もっとも顕著だったのが床であったと考えられます。例えばその典型的な例として、本来ならば純粋な西洋建築としてつくられるはずの教会に敷き詰められた畳を挙げることができるでしょう。上の写真は、京都府宮津市に残るカトリック宮津教会・聖ヨハネ天主堂です。

また、その真逆の例として、明治の元勲山県有朋の別荘として宮津の教会堂と同じ1896年に建てられた京都市内の無む鄰菴の洋館が挙げられます。洋館といっても寺院などで使われる折上格天井が使われ、壁は狩野派の障壁画で飾られています。それなのに、床は洋風の寄木張りです。
日本でいわゆる洋館の形式が移入される時に、この装飾的な寄木張りの床こそが、西洋化の象徴として扱われることになったのだろうと思います。

学習院長官舎(明治村) 1909年、目白に建設された学習院長官舎。和館と洋館が繋がっており、接客や実務では洋館を、プライベートでは和館を利用するなどして、和洋を使い分けたといわれている。

一方、近代化を迎えても住宅に限れば、日本では伝統的なスタイルが長い間踏襲されていました。
そのスタイルとは、一般的に近世(安土桃山時代~江戸時代)までの武家住宅の流れをくんだ一戸建てです。そこでは、畳敷きが基本となり、すべての木造の床の部屋に畳を敷き詰めました。しかし、明治末頃から、一般の一戸建て住宅においても、その一部を洋室として板張りの床でつくるケースが増えていきます。

左の写真は、その先駆的な例として考えられる、明治村に現存する学習院長官舎です。1909年に建てられたこの住宅では、和館と洋館が一体のものとしてつくられているのが大きな特徴で、これ以後、こうした板張りの洋室は応接間という形で一般の住宅にも広がっていきました。

ここで重要なことは、板張りの洋室が、畳敷きの部屋と繫がる形式でつくられたことです。学習院長官舎では、玄関がまだ式台のついた武家屋敷の形式であり、畳敷きになっているため、そこでは靴を脱がなければなりませんでした。結果、洋室でも靴を脱ぐという形が自然な形で踏襲されたのです。 その後、式台のような形式は廃れていきますが、板敷きの洋室の多くがこのような畳敷きと繋がる形式でつくられたことから、日本における板敷きの間では、土足が禁じられるようになったのだと考えられます。