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てんどうの実家の話。
何分、山形の冬は長く、野球小僧のボクは「仏の間」が「素振りの間」だった。

そこで何百回と納得するまで素振りを続ける。、、、始めて3ヶ月もすると畳が綻んできた。
ばあちゃんは、人が来るとその部分を座布団でそっと隠してくれた。
高校に上がった頃、その畳はボロボロになった。

オフクロが「新しいものにかえたい」と進言しても、ばあちゃんは首を縦に振らなかった。
上京する時、ばあちゃんは餞別の10万円に手紙をつけてくれた。その中に1枚の写真。
ボロボロになった畳の写真だ。

その裏にひとこと「努力することの大切さ」。
今はばあちゃんは亡くなって、自宅も改装してその畳は無い。
でも努力したからこそ、甲子園の舞台にも立てた。今がある。
それを忘れさせないばあちゃんの気遣いも忘れない。

櫻井 浩司

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小学生の時、
授業で使った彫刻刀でフローリングに絵を彫ってしまいました。
てっきり、親に怒られると覚悟していましたが、
「良い絵だ」と言われ驚いたのを覚えています。
その絵は、私が中学生に鳴るまで張り替えずそのままにしていました。
どうやら母がお客さんに見せて楽しんでいたようです。

岡本 光平

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私の床の記憶は母方の祖父母の縁側です。
祖父母の家は殆どが畳の部屋で、何材かはわかりませんが、鹿児島の熱い夏でもひんやりしていて肌触りの良い縁側の無垢床は私と従兄弟のかっこうの遊び場でした。

その縁側の床には変な跡が残っていました。
私はいつも気になって、その不思議な形を指でなぞったものでした。

その跡は、味噌を作る時の道具の形で、今思えば、熱いままその金具を床に置いて焦げてしまった跡ではないかと思います。

年に一度いつも一族の女手が集まって味噌作りをする我が家の、絆の印みたいなものでした。どんなに姉妹で喧嘩をしていても、その時期になると、母達姉妹は、祖父母の家に集まり、いつのまにか仲直りして、いろんな話をしながら味噌作りをしている。

そんな中で床に押された焼印でした。
子供たちは手が汚いからと味噌作りの季節になるといつも外に追いやられていましたが、
従兄弟の中では女の子は私だけで、いつかは私もあの輪に入って、味噌作りをするのだろうと思っていたのを思い出します。

大学を卒業して、そのまま東京で就職した私は、未だ、教えてもらっていないまま、
現在、母達は機械を使って味噌作りをしているようです。

祖父母も亡くなり、その家はリフォームされて、他人に貸し出されている今、
あの床の跡はどうなっているのかなあとふと思います。

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実家は田舎のためか、暑い夏もエアコンをつける習慣がありませんでした。我慢できないほど暑い日には母と妹と私の3人でフローリングの冷たい床にゴロゴロしていました。体温ですぐに冷たくなくなるので、冷たいところを探して3人でゴロゴロ、ゴロゴロしていました。それがまた楽しく、気づけばお昼寝してしまって・・・最後まで起きないのはだいたい私でした。夏になると楽しい思い出として思い出されます。

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実家の同じ敷地内にある祖父の建てた平屋は、田舎の家には珍しく仏間までが畳ではなくすべて杉板が張ってある。
赤褐色に変色した幅広の杉板は、無骨な節の見た目と違い柔らかくすべすべとした優しい質感で、寝転がると気持ちが良くて私はついそのままうたた寝してたびたび体が痛くなった。
実家のある鹿児島は杉山が多く、当時の住居で床板を張るのはせいぜい縁側か玄関で、畳が一枚も無い住宅は特に田舎では珍しいものだったらしい。
祖父は戦時中、台湾政党の任務に就いており青年期を台湾で過ごした。祖父が当時家族と暮らした家は杉板を貼ってあり、厳しい台湾の夏にそのさらりとした感触がとても気に入った祖父は終戦後帰国してから新築した家にも杉板を採用した。自ら切り出し製材したという杉は、土台や柱、梁まで使用されている。
子供の頃は共働きの両親が不在で隣の祖父宅で過ごすことが多かった私たち姉弟に、祖父は赤紙が来た日の1日や当時の家族への思い、暮らした家の間取りや台湾人の下男の優しい性格まで、ことあるごとに聞かせてくれた。杉板のぱくっと開いた目地を指で触りながら子供心に興味深く、また時に恐ろしい感情を持って話を聞いていた。毎夕、杉床の仏間から祖父の読経が聞こえると、私と弟は祖父宅に走り一緒に手を合わせた。そのせいか、仏壇の前の床板だけぎゅうぎゅうと独特の音をたててきしんでいた。いつの頃からか、不心得者の私はその習慣から遠のいてしまったが、弟は高校生になっても毎日欠かさずきしむ床の上で手を合わせ続けていた。
進学で故郷を離れた私は、お盆の特番などで戦時中の様子を知るたびに、話をする祖父と共にいつもあった杉の床板の目地のすき間や、やわらかいすべすべの感触を思い出した。その後、長い闘病生活の末病院で亡くなった祖父が北枕で寝かされたのもその杉板の上である。祖父の介護に通っていた大学院生だった弟は、祖父が手ずから建てた自宅の特に愛した杉板の上で最期を迎えさせたいと病院側に懇願したが叶わなかった。今でも風化し赤茶けた杉板を見かけるたびに、私は祖父や弟に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。同時に、子供の頃の暖かい記憶の傍に必ずあった杉板に、甘い愛しささえ感じることもある。
主のない杉屋敷は、引退した両親が杉板の仏間と茶の間を残して倉庫として改装し使用している。祖父の思いの残る屋敷を仏壇の世話をしながら守ってくれているのだ。そして、今度は帰省した弟の四歳になる娘が、弟とぎゅうぎゅうと音のきしむ仏壇の前に並び「なむなむ」と手を合わせてくれている。

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床は大事

床は、住まいとともにあります。
そして、かけがえのない暮らしの時間とともにあります。
夏休み、広い広いおばあちゃんの家で走り回った、木の床の感触。
夜中、軋む廊下を恐る恐る歩いた時の心細いきもち。
涙を抑えるために、うつむいて床の模様を
ぼんやりと数えていた時のこと。
娘が生まれて初めてその足で床を踏みしめたときの、よろこび。
床の記憶を脳裏に描くとき、
その足の裏の感触が、ふとしたときの光景が、
交わした会話が、ともに過ごした人のことが、
胸に迫って、思い出されてきませんか。
百年もの間、床に向き合い続けてきた、私たちが今、伝えたいこと。
床は、かけがえのない記憶を生み出す、大事なものだということ。
皆さまの中の床の記憶を辿りながら、
本サイトをご覧いただければ幸いです。

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